測定する努力の量とその成果から見える主観と客観の差異

私は今、LPICの勉強しており、1/30に行われたLPIC201の試験に落ちた。悲しかった。それなりに努力したと思ったからだ。1ヶ月間、朝早く起きて勉強を継続してきたつもりだった。だから、落ちた時は、「合格できるのでは」という期待からかとても残念に思った記憶がある。

今までの自分であればここで終わりだった。頑張ったけれど、ダメだった。仕方がない。もしくは自分にはダメなのだと落ち込むだけだった。しかし、今回違うのは、clockifyを使用して学習時間を記録していたことである。

https://clockify.me/

clockifyは、時間管理ツールでタイマー式に開始する時と終了するときにボタンを押すだけ。私は勉強の開始と終了ごとにタイマーをクリックし、この1ヶ月の学習時間を計測していた。

結果を見てみた。すると、それなりに頑張ってきたと思っていたが、なんてことはない、私の学習時間は1ヶ月で45h程度だった。それは、LPIC201の合格のための目標学習時間である、75hに満たなかったのである。

合格できなかった理由に納得した。そら合格できないなと。もし、自分が天才であるならば、目標学習時間に到達していなくとも合格できていたかもしれないが、凡人である自分にそんなことはない。

時間を計測することで、努力の量を見える化し客観的な自分の努力量を把握できたことが大きかった。また、感覚的で、主観的な努力の量は、必ずしも参考にならず、これだけ頑張ったのに。という思い込みは自分の可能性を狭める可能性があることを理解した。それは、今までの自分がそうだったからだ。

主観と客観の差異の正体

ここで私が着目したのは、「自分は何故勉強した気になっていたのか?」ということ。自分の主観は全くあてならないなと実感した体験だったのだが、具体的に計測した結果と主観に大きなギャップがあったことが気になった。私の仮説は、おそらく、自分の中の期待を主観に含めて過大に物事を捉えているのではないか。ということだった。まぁ、端的に言えば楽観主義なのだと思った。

これは非常に自分を陥れる危険な思想になるかもしれないとも思った。何故なら私は他人に期待をしないという価値観を大切にしているのだが、換言するなば、「他人には期待しないが、自分には期待していた」ということである。思っても見なかったというか他人に厳しく、自分に甘い典型的な考え方かもしれない。

今まで自分の判断は、自分の感覚に従って下してきたのだが、これは主観的で、かつ期待を含めた楽観的な判断軸をもとに判断していたということであり、判断が甘かったと言える。

なんとまぁ、30才を超えてこのようなことに気づくことになるとは思いもしなかったが現実に今の自分は気づくことになったので受け入れて事実を根拠に判断できるようになりたいと強く思った。