気分や感情の波との付き合い方

気分のむら

私は気分のムラが激しい。良い時は調子が良く、悪い時は気分が悪くやる気が出ない。怠惰でやる気が出ないので寝てばかりとなる。やるべきことはたくさんあるのに、何もできないことが多くて困ってしまう。

今日は〇〇と〇〇をやらなければならないと気持ちは焦っているものの、体は動かず優先順位をつけることもできず時だけが過ぎていく。結局はやるべきことよりも、自分がやりたいことを優先し、時間を消費する。

やるべきことをやることができる日は稀であり、やりたいことが優先される。日常生活では運動が少なく栄養バランスも悪いせいか、自分をコントロールすることが苦手で集中力不足気味である。これは意思の問題なのかたまに迷う時がある。

仕組みでどうにか解決しようといろんな本を漁り、ネットを検索し解決策を探してみる。なるほどこうやるのか、と一旦納得し初めてみたはいいものの継続することはほとんでない。

自分の中での理想は安定的に毎日淡々とやるべきことをすることができる自分であり、そのような自分であれば成長し人々の役に立てる自分へのなっていけると考えている。しかし、現実は真逆であり、情けない自分であるである。

できないことを数え出すと、あれはできていない、これもできていないとなってします。なにぶん、人よりも頭が良いわけでも見た目が良いわけでもない。その上、努力もできないとなってはどうしようもない。

ないものしかない。しかし、ないものだけを見つめていても前に進むことができないのも現実である。どうにか、僅かにでもある自分にできることを探し、役に立とうと努力する。その繰り返しである。

理想の自分と現実の自分

自分の理想像と現実の自分のギャップは大きく、こうあるべきだというべき論を唱えていくと圧倒的に不足している自分に嫌気がさす。だからといってギャップを埋める努力ができているかというとできていないのが現実の自分である。だめじゃん。と我ながら思う。

だからといって今の私は不幸かというと圧倒的に幸せなのである。これは何故かわからない。だが、幸せである。特に裕福なわけでもなく、奨学金が残っているし、社会の上流層なわけでもない。しかし、幸せである。いや、私は自分のことを幸せだと思っている。

仕事はあり、食事はでき、住む場所はある。健康であり、不自由もない。親には恵まれ、友達もいる。相談することができる親友がいて、何かしらよくしてくれる周りの方々がいる。それだけで十分だからだと思っている。

だからこれといった悩みはないのかもしれない。こうありたいと思っているものの、仮に慣れなかったからとしても今の自分は幸せだから、ハングリー精神は持ち合わせていないのかもしれない。

自分の価値

ひと昔の自分はもっと人の役に立ちたいと貪欲だった。だからこそ、理想の自分があり、そのような自分であれば他人の役に立てると信じていた。もっと、こうありたいと思うことである。

しかし、何か筋が抜けてしまったようにその貪欲さが消えたように思う。どこからで諦めたのかもしれない。今の自分には無理だと思い込んでいるのこもしれない。

言葉に書いてみると思考が整理されるのでとても良い。この乱文は誰かに読んでもらうことを前提としていないので、殴り書きであり、流れも論理もグダグダであるがこれがまた等身大の自分だと思うのでこのままで行きたいと思う。

測定する努力の量とその成果から見える主観と客観の差異

私は今、LPICの勉強しており、1/30に行われたLPIC201の試験に落ちた。悲しかった。それなりに努力したと思ったからだ。1ヶ月間、朝早く起きて勉強を継続してきたつもりだった。だから、落ちた時は、「合格できるのでは」という期待からかとても残念に思った記憶がある。

今までの自分であればここで終わりだった。頑張ったけれど、ダメだった。仕方がない。もしくは自分にはダメなのだと落ち込むだけだった。しかし、今回違うのは、clockifyを使用して学習時間を記録していたことである。

https://clockify.me/

clockifyは、時間管理ツールでタイマー式に開始する時と終了するときにボタンを押すだけ。私は勉強の開始と終了ごとにタイマーをクリックし、この1ヶ月の学習時間を計測していた。

結果を見てみた。すると、それなりに頑張ってきたと思っていたが、なんてことはない、私の学習時間は1ヶ月で45h程度だった。それは、LPIC201の合格のための目標学習時間である、75hに満たなかったのである。

合格できなかった理由に納得した。そら合格できないなと。もし、自分が天才であるならば、目標学習時間に到達していなくとも合格できていたかもしれないが、凡人である自分にそんなことはない。

時間を計測することで、努力の量を見える化し客観的な自分の努力量を把握できたことが大きかった。また、感覚的で、主観的な努力の量は、必ずしも参考にならず、これだけ頑張ったのに。という思い込みは自分の可能性を狭める可能性があることを理解した。それは、今までの自分がそうだったからだ。

主観と客観の差異の正体

ここで私が着目したのは、「自分は何故勉強した気になっていたのか?」ということ。自分の主観は全くあてならないなと実感した体験だったのだが、具体的に計測した結果と主観に大きなギャップがあったことが気になった。私の仮説は、おそらく、自分の中の期待を主観に含めて過大に物事を捉えているのではないか。ということだった。まぁ、端的に言えば楽観主義なのだと思った。

これは非常に自分を陥れる危険な思想になるかもしれないとも思った。何故なら私は他人に期待をしないという価値観を大切にしているのだが、換言するなば、「他人には期待しないが、自分には期待していた」ということである。思っても見なかったというか他人に厳しく、自分に甘い典型的な考え方かもしれない。

今まで自分の判断は、自分の感覚に従って下してきたのだが、これは主観的で、かつ期待を含めた楽観的な判断軸をもとに判断していたということであり、判断が甘かったと言える。

なんとまぁ、30才を超えてこのようなことに気づくことになるとは思いもしなかったが現実に今の自分は気づくことになったので受け入れて事実を根拠に判断できるようになりたいと強く思った。

雑談で解消される心理的な距離感

正体の見えない距離感

リモートワークをはじめて8ヶ月経った。2021年の1月、もう半月が経過しようとしている。時の経過が早すぎる。

2020年の3月にIT業界に転職し、5月から現場に入場した。入場した時からリモートワークだった私は、いまだにチームメンバーと対面でお会いしたことがない。コロナウイルスの関係で、拠点への出勤を控えるよう命令があり、それが継続しているからだ。

私は、かつて、一度も対面でお会いせずにリモートだけでプロジェクトを進めた経験がない。例えば、全国にメンバーが散らばる状況であってもお会いする機会があったし、同じ拠点のメンバーとは顔を合わせる機会は複数あった。しかし、今回のように最初からリモートでの勤務は全くのはじめてだ。

最初は緊張した。行動が見えない以上、結果でしか表現できないからだ。隣に相談できる人がいるわけでもなく、物事はほぼチャットで進んでいく。わからないことはチャットで質問する。同じ関東圏に住いながらも、会うことはなく、チャットだけ、たまにZoomでリモートで会う。しかし、顔は出さないので、声だけの面談の機会だ。

顔を出さないことにも抵抗があった。IT業界はそういうものなのかと思った。だから、もはやメンバー(特に女性)の顔を思い出せない。Slack上にある顔写真だけで理解をしている。こういう文化なのだと、理解し、対応していった。

そんな中である方が「雑談しませんか」という話題になった。雑談しようと言って雑談するものが雑談なのか少し疑問ではあったが、しかし私も同じ意見だった。なぜなら、対面がなくなった結果、公式のコミュニケーション以外がなくなったからだ。例えば、すれ違いざまのちょっとした会話や、昼食時の会話など。リモートワークは、対面だからこそ生まれる非公式なコミュニケーションがない状態となっていた。

皆、似たような悩みがあるのだなと思った。東京の人はあまり他人と会話したくないのかなと勝手に思っていたが、そうでもなさそうで、何か人間らしい雑談がない職場は苦痛を感じることがある。私もそうだった。機械のように働きたいわけではない。自分らしく働きたいだけだからだ。

雑談の中で他愛もない会話をした。笑いが起きる。そうそう、こういうのが人間らしい と思った。リモートワークの課題はコミュニケーション不足と統計的に表示されるが、それを体感した瞬間だった。

幸いにも、私たちのチームメンバーは他人を尊重できる方ばかりなので、チャット上であっても、他メンバーに配慮した会話をすることができる。それが素晴らしい点である。ただ、それでも雑談は重要なのだなと肌で感じた。

人間らしさとは何なのか

機械のように命令されたことを淡々とこなす仕事もあるだろう。私はそれでも問題ないと自分では思っていた。しかし、得体の知れない虚無感は他人とのコミュニケーションで生まれる素晴らしい感情を無視した結果なのかも知れない。

得られる情報はチャットで共有されるので業務に支障はない。ただ、隣に誰かいれば気軽に尋ねられるようなことも、自分で調べて解決しなければならない。質問へのハードルが上がったことは確かだ。

無駄も増えたと思う。聞けば、数秒で終わる質問も、テキストに打ち込んで、相手に伝わるように書かなければ相手に迷惑となるので丁寧に書く。だから時間がかかる。それを繰り返す。振り返るという点では良いかも知れない。

昔は雑談というものは無駄だと思っていた。それは、時間の浪費であり、業務の邪魔になるものだと思っていた。非公式に、雑談の中で決まる決定事項は不愉快極まりなかった。公式に打ち合わせがあるのになぜそんな場所で一部の人間で決めてくるのか理解ができなかったからだ。

リモートワークを通して、チャットだけでは解消できない距離感があるのだと理解した。しかし、問題が生まれても、人間は人との対話によって問題を解消していくのだと雑談を通して学ぶことができた。声を上げてくれたメンバーに感謝したい。

今を生きる

2020年、私はIT業界に転職した。これは、流れに身を任せた結果、その道が生まれたから。もともと建築でのものづくりの道を志して高校と大学で建築を学び、それに飽きて経営支援の道へ進む。これは不思議な縁の積み重ねだった。自分が望んだ道ではない。

そして、知り合いからご縁をいただき、会計事務所へ転職し、そこでは情報系の担当となりプログラミングを学び、今に至る。それは全て自分が望んで求めてきた道ではなく、目の前のことを必死に取り組んだ結果生まれた結果である。

一期一会という言葉がある。あまり意識はしてこなかったが、振り返れば縁によって生かされていると実感することが多数ある。そして、それは不思議と人並みの生活、もしくは実力と比較するならば、実力以上の環境に身を置かせてもらっているように感じるのも事実である。

運はいい方だと自負している。それは、ドラマやYouTube、SNSでネタになるような悲劇のような現場には出会わない。とても恵まれた会社や人に出会う。厳しさも当然あるが、自分を成長させてくれる場所に巡り合わせてもらっている。これは奇跡だと思う。

不確実な未来を構築するためにはどうすれば良いかいつも考えている。目標を持って積み上げていくのが良いと思っている。ただ、飽きやすく気が持たない自分は、一つのことを決めてまっすぐ進むことができない。

だから、その瞬間瞬間に興味関心を持った分野に集中的に投資するようにしている。それは、側から見るとフラフラしているように見えると思う。正直、自分の理想の姿ではない。まっすぐ決めたことに突き進むような自分でありたいと思っているが自分の性分はそれには合わず、その時々の感情に合わせた行動を取る方が結果的に必要な成果を上げることができるとわかっているから。

理想の自分と現実の自分は違うことを理解しなければならないと最近わかってきた。というか、自分自身を理解することはとても難しい。客観的に見つめ直すことがなかなかできない。理想の自分でありたい という感情であれば、前向きな改善ができるだろう。ただ、私の場合は、理想の自分でなければならないと思っていた節がある。これは自分を苦しめた。だから今はやめた。自分の思うように生きるようにした。

どうも理想の自分がたまに顔を出して、邪魔をする。プライドというやつなのか。頭が高いことは頻繁にあるが理想の自分とは本当に邪魔な存在である。義務感となっている場合は余計である。

振り返れば、未来を憂いている時よりも、ガムシャラに目の前にことに向かって、今を必死に生きているときの方が充実しており成果も出て周囲にも認めてもらえている。だから未来は見つつも今を生きることに集中しようと思う。

プロと一般の違いとは

最近、宮迫さんにハマっている。あの、芸人の雨上がり決死隊の宮迫さん。30年テレビの世界で生き残ってきたプロの芸人さんが、昨年の騒動から謹慎し、今年の2月からYouTubeで復帰した。そこからずっと追いかけている。

なぜ宮迫さんの動画を追いかけているのかは別の機会に書くとして、今回は彼の動画を見ながら感じたことを書いてみたいと思う。

一つの動画が上がるのには、さまざまな企画があるが宮迫さんが喋る時は笑いが起こる。YouTubeは誰もが自由に参入でき、誰もが投稿できるからこそ、素人も参入してきてクオリティの低い動画も乱立している。

そんな中でもさまざまな動画がアップされたが、私が好きなのは、動画そのものもそうだが、ダイエット企画や毎日配信といった宣言したことをやり遂げ、登録者100万人を超え、視聴回数も2億回を突破するという成果を生み出したこと。

死ぬか生きるかの死線を超えて生き残ってきた人の重みは違う。決めたことはやり切る強さ。自分には明らかに足りないものをたくさん持っていてそれがまた尊敬できると思った。

何を求められているか、自分は何を演じなければいけないのかを理解している。生き残るすべき方法論を体験している。理不尽なんてものは山のようにあっただろう。全てを受け入れ、歯を食いしばって生きてきたのだろう。それが芸の中から滲み出ている。

それに引き換えて自分はどうだろうか。何を成し遂げられただろうか。どんな努力をしてきただろうか。歯を食いしばって生きてきたのだろうか。生ぬるい優しい世界でぬくぬくと生きてきたのだろうと思う。

超えてきた世界が違うからなのか、結果が違うのは当然のことだろう。行動の量が圧倒的に違う。そこまでの行動量を維持できていない自分がいる。年齢も何もかもこれからなのに。ダラダラとしている自分が嫌になる。

このままで良いのか自分は。変わろうと思った今から変わるべき行動をしていこう。と。

怠惰との向き合い方

自分の怠け癖やサボり、浪費や消費。自分がやりたいことを優先し、感情のままに流されていく感覚。自分の弱い部分を認識し、理解し、向き合い、変えていく努力の大変さ。30歳を超えていまだに悩んでいる。

努力を継続できたことがあまりないだらしない男であり、やるべきことをできないダラダラと時間浪費する。やるべきことは山のようにあるのに、見たいYouTubeをみて大切な時間が消えていく。

その瞬間は良かったとしても、将来生み出せるであろう価値は低下する。それがわかっていても目の前の快楽に勝つことができない。何度決めた目標を達成できず挫折したことだろうか。自己啓発系のセミナーに何度参加したか。勉強しようと色々調べ、本を買い、挑戦しよう、変えていこう自分と意気込んでも行動は何も変わらない。

色々学んでわかったことがある。どれだけわかったつもりになったとしても、行動しなければ何も生まれないし、どれだけ変わりたいと念じたとしても行動が変わらなければ変わることはできない。

おそらくこれは自分の中に環境への甘えがあるのかもしれない。どこかで、どうにかなると思っている自分がいる。今までなんとかなってきたのだからこれからもどうにかなるのだろう。と。

これはおそらく間違いではない。なんとなく生きるだけでも最低限で生きていけるだろう。しかし、本当にそれで良いのかと思う自分もいる。

こういう文章を書いていると思い出す本がある。アドラー心理学の嫌われる勇気だ。おそらく私は変わらないと決めているということ。

自分はどうやったら変わることができるか。行動することである。それだけはわかっている。ただ、怠惰という自分の中の弱い部分が邪魔をする。これは今になって始まったことではない。10代後半から悩んでいたことだ。おそらく、これは今後もずっと続くことになるだろう。

毎日必死で生きているはずなのに、どこか気を抜く自分がいる。サボることがルーティンの中に組み込まれてしまっているのかもしれない。

あーだこーだと思うことはたくさんある。自分の頭の中でぐるぐると周り回る。文章を書いているとまとまらないがそれはそういう理由だったのかと書きながら気づく。なるほどと。

Hello world!

初めまして。記事にすることは思考を整理するのに役立つのではないかと思い、ブログを始めました。正直、何を書いたら良いのかよくわかっていません。それぐらい自分の思考は浅いのかもしれません。

面白いことや役に立つこと、読んでもらえることといった重要なことがあるのかもしれませんが、気にしないことにします。私がこのブログで大切にしようと決めているのは、次のことです。

自分の思考を、自分の言葉で、自分の表現によって言語化すること

私は言葉に苦手意識があります。それは、今ままで伝えることを軽んじ、面倒くさがり、単語の意味を強く意識してこなかったからです。しかし、社会人になり仕事をするようになり、意識せざる得ない状態になりました。それは、正確に使わなければ、自分が発した言葉は相手に届かないし届いたとしても受け取ってもらえないからです。

それに、人によって使う言葉は異なります。同じ意味だとしても表現が異なることも稀ではありません。それぞれの人生でそれぞれの言葉を用いてコミュニケーションをとります。相手の言葉を理解できなければ、真意を受け取ることができず、コミュニケーションギャップが生じます。これは、とても問題です。

だからこそ自分の思考を言語化する練習をすることで、言葉をより強く意識することができるようになるのではないかと思ったのです。

無理せず、気が向いたタイミングで更新すること

私は短気な正確で、興味が湧きやすく、飽きやすい性格をしています。これは、私の性格です。長所でもあり、短所でもあります。そして、自分でそれを自覚しています。

書きたいと思う自分の感情を大切にしたいと思っています。やるべき というべき論を大切にしてきました。こうあるべきだということ。 目的意識を持って、達成する目標を立て、それに向かって全力で努力すること。これは大切なことです。否定しません。しかし、私にとってそれは苦痛であり、燃え尽きてしまう元になります。

こうあるべきという周囲の目線を気にするあまり、自分の感情を押し殺してきた自分は、素直な自分の感情よりも、世間体や周囲の目線を気にし、それらを優先するようにしていました。息苦しかったのです。なぜ自分は生きているのかわからなくなる時もありました。

そんな自分だからこそ、その瞬間瞬間に生じる感情を大切にしたい。飽きたら飽きたで構わない。一度やめて、また始めたら良いし、書きたいタイミングで書きたいと思う。

等身大の自分を表現すること

私はどこか見栄っ張りな性格なようで、背伸びしたり、少し大きく・綺麗に・見栄えよく・誇張するような癖があります。これもまた自分の性格です。嘘とまでは言わなくとも、ほんの少しだけ自分にとってプラスになる表現にしてみたり、物事の角度を変えて、相手から自分がよく見えるように伝えるといったことがあります。

これは何もマイナスなことばかりではありません。お世辞や見せ方は仕事をする上で重要なことでもあり、馬鹿正直という言葉があるように本当のことだけをいうのも正しいとは思いません。ケースバイケース。

ただ、自分にとって誇張することや誤魔化すことはカッコ悪いことです。これは、ふとした瞬間にそんな自分が出てきます。「あ、やばい」と思った瞬間。誰かに怒られた時や修羅場とまでは言わずとも、緊急事です。いざというときに自分の本性が出てくるもので、一瞬、等身大の自分ではない表現をしようとする瞬間があり、葛藤します。あ、これをいうべきかと。 その迷うことも、思いつくことも、そういう自分が嫌いなので、変えていきたいと思っている自分の一面なのです。

以上が私が大切にしたいと考えていることです。お気軽に、誰が読むかもわかりませんが気ままに更新していきたいと思います。